現在の印刷技術に繋がる過去の成長・発展を
前史・紙の発明から写真の発明までの歴史を紹介。
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。グーテンベルクが発明した鉛活字が、今度こそ本当に、日本における近代印刷のスタートを切らせたのです。オランダに造船を依頼していた咸臨丸に乗ってやってきた活版印刷技師が、1857年に寄港地の長崎・出島に印刷所を設置し、持参した印刷用資機材を使った蘭書を何冊か製作しました。これらはオランダ語で印刷されていたのですが、それに強い関心を寄せた人物が日本の近代印刷術の祖といわれる本木昌造でした。
本木昌造は、もともとオランダ語の通司(通訳)を仕事にしていた関係で、オランダからやってきた印刷技術の素晴らしさに感銘し、何とか日本語の印刷物をつくってみたいと思いました。そこで、オランダの貿易商人から購入した印刷資機材を手にしながら研究に没頭し、ついに片仮名邦文の鉛活字をつくることに成功しました。早速、自分で書いた本(蘭和辞典)の印刷を試みたのです。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。そんな経験を生かして自ら日本語の活字開発に挑戦し、さらに、明治に入って早々(1869年)に活版伝習所の開設に漕ぎつけています。
経営していた洋学を教えるための私塾の運営資金に、印刷から得る利益を当てるというのが表向きの理由でしたが、ときあたかも中国・上海で印刷所の館長をしていた活版技師ウィリアム・ガンブルが寄港した際、電気メッキの技術を用いる電胎法という新しい母型製造法を教えてもらう機会を得ました。本木昌造は勤め先も辞めて活字づくりに専念し、明朝体の号数活字をつくる契機にしたのです。 その後、門弟であった平野富二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。築地活版製造所が長崎の活版製造所から引き継いで製作を重ねた書体は「築地体」と呼ばれ、日本で現在使われている印刷文字の源流となっています。
これとは別に、江戸幕府によって1855年に設立されていた洋学所が外国書物の翻訳、教材の出版をおこなうために、以前、オランダから贈られていた欧文活字と鉄製の活版印刷機を活かすことにしました。この洋学所は後に開成所(東京大学の前身)と改称されるのですが、そこでは人文科学から社会科学、自然科学まで幅広い分野の教材を広めようと、オランダ語はもちろん英語、フランス語、ドイツ語の翻訳出版を手がけることとなりました。本木昌造とは全く異なるルートでも、日本の近代印刷技術が発展していったことを物語っています。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。1870年に早くも発刊された「横浜毎日新聞」、それに続いた「東京日日新聞」は、その嚆矢となりました。日々のトピックスを報じる絵入りの錦絵新聞が発行されたほか、明治維新から10年の間に、活字印刷でつくられた本は実に3,600点にも達したそうです。明治政府が推進した近代化と文明開化の流れを、印刷が一段と促したことは疑いようのない史実となっています。
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