皆さん、こんにちは。ただいま素晴らしいご紹介をいただき誠にありがとうございます。弁護士の森田貴英です。きょうは、こういう素晴らしい講演会にお招きいただきましてお話をさせていただくという機会をちょうだいしまして非常にうれしく思っております。
私のこれまでの略歴に関しましては、今ご紹介いただいたのですが、弁護士を生業としております。弁護士は、いろんな弁護士がいらっしゃるわけですが、私は1996年に弁護士登録をして以来、企業法務を専門としております。 |
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夏季講演会 |
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中でもエンターテインメント、メディア・エンターテインメント。ファイナンス、M&Aとか、そういったことを私は専門にやってきたわけでございます。
今、経済産業省のメディアコンテンツ課と交流させていただいているという話がありましたが、専門領域がメディアだとかコンテンツ、エンターテインメントという、いわゆる特殊な分野をかれこれ13年ぐらいやってきました。その領域は専門家が少なかったこともありまして、経済産業省がまだ通産省という名前で呼ばれていたころから、いろいろとお手伝いもさせていただきまして、知的財産権のことも日本の産業の中核として育成できないだろうかというようなことを、いろいろと現場からのフィードバックということでお手伝いをしていたんです。
そんなことで、知的財産権とかファイナンス、企業法務といったところと、あと国際関係業務をたくさん取り扱っております。特に近年は、早く言えばハリウッドの方々との映画のビジネスですね。私のクライアントは、アニメ会社であるとかあるいはテレビ局、そういったところが持っている財産、プロパティに興味を示していただいて、それをつなぐ弁護士がいなかったものですから、私のところに相当話が来まして、そういうことを成立させたり、あるいは投資ファンドをつくるなんていうことをずっとやっておりました。
そんなことで、私はどちらかというと非常に資本主義的な弁護士をずっとやってきたわけですが、その弁護士が何で「降りてゆく生き方」という映画をつくっているんだと。弁護士が映画をつくっていることに相当違和感があって、何のことやらよくわからないという方々もたくさんいらっしゃるかと思うんですが、そんな方々のために、私が語るより、きょうは武田鉄矢さんからメッセージを預かってきておりますので、武田さんからこの映画「降りてゆく生き方」をどんなふうにつくっていったのか、メッセージを皆さんに伝えたくて、皆さんにご覧いただければなと思っております。 |
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私は、ビジネス弁護士ということで14年ほどやってまいりました。最初に入った事務所が、「国際法務の有名な事務所で、私は幸いにしてそこに1名だけ採用されまして、6年半ほどそこにいたわけです。そのころはまだ「ビジネス法務」という言葉の出始めで、法務部というのは出始めのころでした。そういった中で、私は一年生弁護士として社会に放り出されたわけですが、このままではまずいなと思いまして、何か新しい領域に踏み出していか |
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ないと自分の価値は認められないだろうということで、どうしたらいいかということを考えたときに、エンターテインメントという領域にたまたまめぐり会いまして、テレビ局であるとか映画会社、アニメ会社、俳優さんとか、タレントグループとか、顧客に私も非常に恵まれたほうだろうと思います。
そんなことで当時、経済産業省であるとか特許庁、文化庁、総務省、そういうようなところの仕事も、20件ぐらいさせていただきまして、今考えると本当に、若くしてよくそういうチャンスをいただいたなと思っていたのですが、そんなことでやってきました。
そして次に新たな課題として考えたのが、ファイナンスのところでやっていくということで、非常に大きな組織だったんですが、ちょうどマザーズという市場ができたころに、そこの上場第1号の会社からお声かけいただいて、「少し手伝ってほしい、コンテンツをやりたい」ということで手伝ったんですが、そのときに、それまで財務なんていうものは、経理部のおじさんかだれかがやっているつまらない仕事だと思ったんですが、ちょうど日本興行銀行がなくなるころだったんですが、ちょうど三木谷さんと同じような興銀のエリートの人たちが、「これから新しいことをやるから森田君一緒にやろう」ということで、その当時、ハーバード大学のすぐ近くでしたがMBA的なファイナンスのところで、企業価値の算出の仕方とか、そういったことの指導を受け非常にショックを受けました。
ああ、会社というのはこういうものなんだと、財務とはこういうものなんだ、お金ってこういうものなんだ、というのをまざまざと見せつけられまして、ファイナンスの日本で一番新しい弁護士になろうと思いまして、そこから一気に勉強しました。
今は大手の銀行さんなんかでもだいぶ詳しい人が出てきていますが、私がやり始めたころは本当に一人もいないような状況でした。そうやって弁護士としていろんなフロンティアを築いたわけです。 |
そのときは本当に本気で思ったんですね。やはり日本をなんとか良くしたいという思いが非常にありまして、そのためには、これはお金の力しかない、と。お金の力でベンチャーを起こして、M&Aをやって、旧来的な企業に替わるようなものをつくっていくことが日本の企業の繁栄であると信じていたわけです。それはまさに小泉・竹中路線の新自由主義者なんですが、そういう意味ですとバリバリの新自由主義者だった。少なくとも弁護士業界では一番新自由主義に一時期傾倒していた弁護士だったと思います。
そこに役に立つのが法務であるべきだ、国際法務であるべきだという信念がありまして、数年間はそこに邁進しておりました。
その中で、エンターテインメントのファンドという形で自分の得意領域を組合せまして、一番ヒットした作品が、角川春樹さんが刑務所を出てきたあとの、春樹さんのところとおつき合いある会社もあるかもしれませんが、「男たちの大和」という作品ファンドを組ませていただきまして成功をおさめ、あるいは、今、「TOHOシネマズ」となっていますが、「ヴァージン・シネマズ」という会社があったのですが、そこのアドバイザーとして成功させるというようなことをいろいろしておったわけです。
そういう中で、いろいろとビジネスをプロデュースしていくというような事業もかなりしてきたわけです。先ほど私の経歴にもありましたが、東京国際映画祭の顧問をさせていただいて、そこにハリウッドのトッププロデューサーであるとか、プロデューサー育成プログラムといいまして人材育成ということもやって、要するにお金をいかに使うか、映画というのはビジネスとして最先端の手段なんだ、日本が良くなる手段なんだ、と。そこに自分の弁護士生命をつぎ込もうと思って努力をしていたわけです。
そういう中で、ここの領域では多少認めていただきまして、いろいろなクライアントもついてやってきたわけですが、そういった中で経済産業省のOBである堺屋太一さんの小説を原作として映画をつくろうということが、私とクライアントの間で持ち上がりまして、よし、それをやってみましょうということを考えました。 なぜ堺屋さんが原作だったかと言いますと、これは2005年だったのですが、当時2007年に、いわゆる団塊世代がリタイアされるのを「2007年問題」といわれましたが、そこで皆さんが退職される。そうすると退職金をたくさん持ってお金持ちになる。それで、いろいろとそのお金の使い道に困るだろうから、そのマーケットを狙いましょうということが2005年あたりに盛んにいわれていたんですね。
そこを狙ったエンターテインメント映画がないので、じゃ、「団塊の世代」の名付け親である堺屋さんの小説、しかも日本経済新聞から出されている本で、そのもともとは『日経ビジネス』という最も有名なビジネス誌に連載されていたものなので、自分の経験からというか、マーケティング的に非常によいと思ったんです。しかも団塊世代が当時1,000万人といわれていましたので、これはビジネス的にも面白いし、エンターテインメント・ファイナンスと組んだら面白いんじゃないか、社会現象が起きるんじゃないかということで、もっぱらこれはビジネスの成功を目指して、私のエンターテインメント・ロイヤー、あるいはファイナンス・ロイヤーとして、一つの取りまとめたものとして、いってみれば30代の集大成としてひとつやってみようということで、5年前に着手したプロジェクトだったわけです。 |
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