まだその当時はIBMが世界のシェアの90%を占めていました。私どもは、IBMの文献を調べては東芝のコンピュータをつくっていった時代です。
東芝はその当時、ノートパソコン、ダイナブックを開発した溝口哲也というのがいますが、彼氏と一緒にコンピュータをやっていました。ダイナブックは、その当時はおそらく世界の60%のシェアを占めていたと思います。そんな時代もありました。今でも東芝のOBとしてときどき東京へはお邪魔しております。
そんな東芝時代に、自分は昔から山が好きだったので、東芝の山岳会に入っておりました。山岳会活動をやっているうちに電算機よりも写真家になったほうがおもしろいと思うようになりまして、それでカメラマンになろうかなと思って、東芝を辞めて川崎のスタジオで2年飯を食ってから、ヨーロッパに飛び出しました。
ヨーロッパでは、皿洗いから始まって、モーツァルトの生まれたウィーンのザルツブルグ、夏には音楽祭が開かれていますが、そこの大学でドイツ語を習いながら、カメラマンとしての仕事がないかなということで、ザルツブルグのタールハマーというデパートでカメラマン兼デザイナーで雇ってもらいました。そこに4年おりました。
戻ってきてからは何もすることないので、名古屋で、じゃ、スタジオでも開こうかということで、その時代やっと動き始めましたコマーシャル関係の仕事がいいだろうということでこの道に入りました。
ですから、名古屋でその当時中堅どころの印刷会社さんに日参して顔を出して取れるようになった初めての仕事が、名古屋の東山ガーデンという結婚式場の表紙に使う写真です。それは、カナリアのつがいがくちばしをチクチクやっているようなポーズの写真を撮ってくれというものでした。その当時カナリアのつがいを2,000 円で買いにいって、何とか枝をつけて、まわりを白い箱で全部囲ってトントンやりながら2日がかりで写真を撮りました。そんな写真の撮影値段が2,000 円でした。でも、それが受けたのか、それからコマーシャル関係の仕事をいろいろいただきました。
かといって主体になれないのがカメラマン稼業で、いろいろな企画をやると、どうしても先に企画ありきで、やはりプランナーとかクリエイティブな部署を持たなければいけないということで、スタジオのほかに企画部門を設けました。その企画部門を育てながら、デザイナー、プランナー、コピーライター等、その辺を雇って、20人規模くらいの会社にはしました。そこまでは順調でしたが、バブルが崩壊したときに、広告関係の仕事が、今と同じでドンと減りました。
これではいかんということで、その当時、やはり攻めなければいかんということで、名古屋の真ん中に事務所を別に置きました。そこに自分の跡継ぎになるべき営業部長を置いたのですが、2年間で相当お金を使って結局だめになりました。そのときに将来的には、私はカメラマンやりながら、デザイナーやりながら、企画ごと、プロモーション、特にうちの場合はホームセンターが日本に上陸したときにホームセンターづくりの支援計画をやるのが一つのメイン業務になっていた時代がありまして、当時ホームセンターを五つくらい立ち上げる仕事を当社がしたのです。そういうところへのプロモーションから販促計画の指示から、全部私がメインでやったものですから、うちの社員のだれがこの仕事を継げるかといったときに、そういうマルチプレーヤーが今はなかなかいない。当社もそれも違わず一つひとつの業務はできてもたくさんの業務ができない。では、もう分社化してしまえということで、写真スタジオは一番弟子に譲って、インターネット絡みはほかの場所に移して、今は企画、プランニング関係の仕事を一光社プロというところでやっています。三つに分けて分担しました。
縮小して、私は65歳でリタイアするよといっていたので、やっと私も今年65歳になったので、今年の4月に決算を迎えるインターネット絡みの会社は社員に譲りましたが、残りの一つ、私の一番基盤になっていた一光社プロという会社が去年の8月から売り上げが半減しました。ご存じのとおり、当社はトヨタさんのプレゼンテーションツールを結構つくっていましたので、この辺が今ほとんどないです。それとオオクマさんとか、工作機械メーカーも、住宅関連のミナコシさんもほとんど仕事がない。それで半減しております。一光社プロだけは、借り入れがちょっと増えているので、この分を戻してからリタイアしなければいけないということで今、頑張っております。
50歳を過ぎて私は、自分の会社を分社化して整理しようというころ、いろいろな企業さん、それこそ愛知県ですからメーカーさんもあればいろいろな流通関係の仕事も含めて、種々雑多な会社とつき合ってきましたので、会社の経営計画やビジョンづくり、戦略というものに関して深くかかわってきたノウハウがありますので、ここ10年くらい前から企業さんの経営指針づくりのお手伝いをしております。
こちらに見える方は企業規模が結構大きな方が多いのですが、ジャスダックに上場している企業さんでも、経営体質が非常にワンマンなところが多い。去年の11月くらいから私のところに月に2回くらいずつ、従業員600 人規模の労働組合の委員長が私のところに来ます。彼は、「会社がビジョンや方針、中期経営計画を明確に出さないので労働組合でつくりあげる」といって今つくっていますが、お話を伺っていると、結局「経営陣から出てくる中期経営計画というのは数字だけだ。来期は10%上げてくれという数字が出るだけで、では10%上げるために何をすればなるかが何も示されていない。これではなるわけない」ということで、若い労働組合の委員長が私のところで今、戦略計画を練っております。
今回の世界不況もそうですが、企業さんを見渡してみると、一番変化に対してスピード感がないのが、トヨタさんを除いた大手さん。一般の中小企業、中堅企業でも、社長の平均年齢が60歳を越えている企業さんは、実は動きが速い。印刷会社さんもそうです。私の関わっている印刷会社さん、中堅どころですが、社長は70歳を過ぎていまして、専務が私と同じ年で、この専務は私と非常に仲がいいのですが、彼の会社をみていると本当に変わっていない。
というのは、上から「何とかせい」というのです。「何とかせい」とトップ陣がいっても、その下の幹部はもう50歳代です。そうすると、それまでは印刷業界はそんなにひどく不況になったとか、つぶれる会社というのはあまりなかったのです。バブル崩壊以前は、「印刷会社はやっていればみんなもうかるんだよ」と、そんな話はよくしていたのですが、印刷会社だけでなく、昔は需要と供給のバランスで、つくれば売れた時代に皆さん経営していらしたと思うので、考えなくてもだいたいモノをつくっていれば、品質とコストと納期さえある程度考えていれば成り立ったみたいな感じでした。
ところが、バブルが崩壊して、今回のように、日本を取り巻く環境が、人口減少もそうですが、需要の減少傾向にある。考えてみたら、もう皆さん満足している。余分なものはいらない。そんなところでいったい何をするのかといったら、今度は自分たちで仕事をつくっていかないと売上が増加しない時代になってきてしまったのです。
これは極めて厳しいわけです。何も考えなくても売れた、もうかったといって20歳代で入って、30、40、50代になってしまった経営幹部の人たちが、社長に「おまえら、何とかせい」といわれても、50代の人は、感性や想像力、アイデアはなかなか出てこないものです。
よく私の塾で「アイデアラッシュ」といって、「SWOTやるよ。じゃ、自分のところの強み、弱みを20ずつ出してくれ」といいます。では、そこからどんな戦略を導き出すかといっても、50歳を過ぎるとほとんど出てこない。これは、それまでそういうトレーニングをしてこなかったというか、それまでそんなに危機的な状況になかった。自分の会社でも30代の若手に「アイデアを練ろ」といっても、いままでがそういうことをしなくても生きてこれてしまったのです。デザインを工夫することはできても、会社単位に対して、自分たちは何をしたら将来的に会社が発展するようなことができるのかということを急に考えだしても無理です。
ですから、我々は常に思うのですが、しつこく粘り強くやっていかないと社員が育たない。ですから、トップが、我々はこういう戦略でやるんだといって向かうべき方向を示してやって、ではそのための戦術を皆さん練ってくれよ、と。戦術を練るにも、最初わからないから単にやって、指導する人たちによってその戦術を一つひとつつくっていかなければいけないのではないか。そんなことを最近、中小企業さんを見ていて思います。
きょうは「世界不況こそ変革のチャンス」なんて書いてありますが、では、どうなるか。少しおつきあいください。 |