トピックス一覧
製本
印刷をしたものを冊子の形態にするには製本加工が必要です。製本は大きく並製本と上製本の二種類に分けることができます。 並製本とは、本文と表紙をつけてから、背以外の3方(小口、天、地)を一度に断裁し、指定寸法に仕上げる形式の製本様式で、上製本に比べ、コストを抑えることが出来ます。背の部分の綴じ方の違いによって無線綴じ・平綴じ・中綴じ、めがね製本の4種類に分けられます。 上製本は一般的なハードカバーの書籍のことをいい、糸かがり綴じともいわれます。背の部分に糸を通して綴じる製本様式です。糊付けのみの無線綴じと比べてかなり丈夫に仕上がります。糸綴じした中身を断裁してから、表紙でくるむ形の製本で、前後に必ず見返しがつきます。『製本お役立ち便利帳』 (全日本製本工業組合連合会ホームページより)以下のポイントに関して詳しい説明が掲載されています ・製本の基本ルール ・綴じ方の選択 ・用紙の選択と...
全日本シール印刷協同組合連合会
全日本シール印刷協同組合連合会設立:昭和36年(1961年)5月所在地:〒110‐0015 東京都台東区東上野3‐25‐1 KIビル電話:03-3844-9216 FAX:03‐5828-8797http://www.seal.gr.jp ■≪沿革・組織≫日本におけるシール印刷は明治44年(1911年)に、東京・四谷の「尚山堂」がドイツからシール印刷機を輸入して製造を始めたことが最初とされている。シールは当初、本来の意味である「封緘」用途としてデパートの包装に用いられたほか、化粧品や医薬品、食品などにも用いられるようになり、当時では高額であったにもかかわらず次第にその用途が広がっていった。シール(印刷)は第2次世界大戦後の一時期まで、裏面に糊を塗布したもの(これをガムテープと呼んだ)を用いたものが主流となっていたが、昭和32年(1957年)ごろ、ドイツやアメリカから入ってきた「粘着紙...
紙に関する各種情報
日本製紙連合会のホームページより主要なトピックとリンクをご紹介します紙のあれこれ ⇒紙に関する基礎知識から素朴な疑問や豆知識など「紙のあれこれ」を掲載しています環境への取り組み ⇒循環産業としての立場から、木材調達、リサイクル、環境行動計画、省エネ対策、環境対策、生物多様性などを掲載しています製紙産業の現状 ⇒製紙産業のあらゆる動向を、最新データを使って紹介しています発表資料・統計資料 ⇒最新の活動内容や統計に関する発表資料を掲載しています
光沢加工
紙はそのままでは水に弱く、耐久性もあまり高くありません。その時に各種の表面加工を行うことにより耐水性や強度を上げる事が出来ます。また印刷を一層引き立てるための各種の加工も可能です。これらの加工を光沢加工と呼びます。冊子「光沢加工のすべて」より以下の項目をご紹介します。1章 印刷物の仕上げ工程を担っています ○ キーワードは高級化、個性化、耐久化 ○ 光沢加工にはこのような種類があります ▪塗りの「光沢加工」 ▪塗り押しの「プレスコート」 ▪塗り押しの「UV ラミコート」 ▪貼りの「ラミコート」 ○ 優れた特性が採用効果を高めます ○ 光沢加工に関する「?」と「!」 ▪色調の変化 ▪印刷インキの変化 ▪インキ乾燥 ▪パウダーの影響 ▪カールの防止 ▪折適性2章[光沢加工]はこんな技法を提供しています ○ 樹脂を塗布する「光沢コート」 ○ 樹脂を塗布してプレスする「プレスコート」 ○...
全国グラビア協同組合連合会
全国グラビア協同組合連合会 設立:昭和46年(1946年)1月所在地:〒130-0002 東京都墨田区業平1‐21-9 あさひ墨田ビル2F電話:03-3623‐4046 FAX:03‐3622-1814http://www.gcaj.or.jp/ ■≪沿革・組織≫グラビア印刷は凹版印刷の代表的なものであり、グラデーションに富み表現力が豊か、多種多様な基材に対応可能、大量・高速印刷が可能等の特徴から、美術的なポスター・カタログ、有価証券類、雑誌・週刊誌、軟包装材(フレキシプルパッケージ)、壁紙・建材など多くの分野で利用されている。特に、ポリエチレン、ポリプロピレンなどのプラスチックフィルム、複合フィルムの発達により被包装商品の品質確保が可能になったこと、および価格面のメリットなどから、ピン・缶のようなリジットパッケージから軟包装材への転換が進み、とりわけ食品包材としての用途が拡大し、現在...
インキに関する各種情報
印刷インキ工業会のホームページより主要なトピックとリンクをご紹介します身近なところに印刷インキ ⇒いろいろな印刷インキが、身の回りにある各種製品に使われている様子の紹介印刷インキのできるまで ⇒平版、オフ輪、凸版などペースト状インキの製造工程とグラビア、フレキソなど液状インキの製造工程を紹介NL規制 ⇒インキが食品包装材料に使用される場合、包装される食品の安全性や衛生性を保つために、インキメーカーの立場から業界の自主規制として制定したNL規制の紹介環境と印刷インキ ⇒環境対応型の各種インキの紹介 VOCの排出抑制の取り組み ⇒印刷インキ業界におけるVOCの排出取組みを紹介植物インキ ⇒植物油インキの定義および使用基準の紹介 インキグリーンマーク ⇒印刷インキ工業連合会が2015年9月より開始した印刷イ...
“明治150年”記念展示 「日本の印刷の歴史」 ―江戸から明治期における日本の印刷技術―
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年に当たります。IGAS2018において一般社団法人日本印刷産業機械工業会(JPMA)は “明治150年”記念展示 「日本の印刷の歴史」 ―江戸から明治期における日本の印刷技術― というテーマでの展示を行いました。日本印刷産業機械工業会様のご厚意で、この展示の内容を「ぷりんとぴあ」の「印刷の歴史」に掲載させていただきます。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかを是非ご覧ください。“明治150年”記念展示 「日本の印刷の歴史」―江戸から明治期における日本の印刷技術―本年は明治元年(1868年)から満150年の年に当たります。明治以降、近代国民国家への第一歩を踏み出した日本は、明治期において多岐にわたる近代化への取組を行い、国の基本的な形を築き上げてい...
全日本スクリーン・デジタル印刷協同組合連合会
全日本スクリーン・デジタル印刷協同組合連合会設立:昭和47年(1972年)5月所在地:〒101‐0031 東京都千代田区東神田3-2-8(堀川ビル 3陪)電話:03‐3863-6901 ・FAX:03‐3863-6902http://www.jsdpa.org ■≪沿革・組織≫スクリーン印刷は、大正中期から紙、布、鉄板などに対して行われており、昭和30年代半ばから急速に発展した。従来からの印刷技術、インキの質などによる問題も改善され、また、被印刷体の多様化に伴って特殊インキが開発され、それまで主体となっていた商業用品に加え、工業用の分野にスクリーン印刷が用いられるようになった。印刷の方式としては、平面印刷・曲面印刷・長台印刷に区分され、被印刷体としては、紙・紙製品・金属・繊維・建材類・ガラス・皮革・各種プラスチック類・その他である。昭和30年代半ばになると、新素材として数多くのプラスチ...
1.「百万塔陀羅尼経」現存する世界最古の印刷物!
「百万塔陀羅尼経」現存する世界最古の印刷物! 日本の奈良時代(8世紀中葉)につくられた「百万塔陀羅尼経」は、開版年代が判明していて、しかも現存する印刷物としては世界最古のものです。当時は歌集や経典、さらには史実の記録などに関する書写が盛んになってくる時代でした。そんな社会環境を考えれば、この「百万塔陀羅尼経」が印刷技術によって大量に複製されたのには、必然性があったといってよいでしょう。 では、「百万塔陀羅尼経」は、どんな時代背景のもとでつくられたのでしょうか?史実によると、称徳天皇が道鏡(僧侶)を重用したことを不満に思った大臣の藤原仲麻呂が、排斥を要求するクーデター(恵美押勝の乱)を引き起こしました。それを平定するための戦いで双方に大勢の死者が出たのですが、これを悼んだ称徳天皇が770年に、供養と平和祈願のために勅願し製作したのが百万塔でした。6年の歳月をかけて高さ20cmほどの小さ...
2.江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷 仮名草子・浮世草子・引札・かわら版などは当時の出版物 元禄期(17世紀末~18世紀冒頭)、文化・文政期(18世紀末~19世紀冒頭)に象徴される江戸の文化を根底から支えたのが、木版印刷による出版物でした。 日本における木版印刷は、仏教と結び付いて平安時代後期に仏典の製作に多用され、その後も鎌倉時代、室町時代へと栄えていったのですが、江戸時代に入ってから数多くの版元(出版業者)が生まれたことで、仮名草子、浮世草子、草双紙、黄表紙といった書物が町民たちの間で流行したのは、よく知られていることです。近世文化の開花を印刷が支えていたことになります。 寺子屋の普及とともに、いわゆる読み書き算盤のできる人々が増えた結果、町内に配れるようになった「引札」(チラシ)や「かわら版」(新聞)、「稽古本」(教科書)も、木版印刷の浸透と深い関係があります。絵入り「伊勢物語」...
3.錦絵は色彩豊かなカラー刷りの美術作品
錦絵は色彩豊かなカラー刷りの美術作品 この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。色ごとに絵柄の異なった木版を何枚も彫り、重ね刷りすることで、色彩豊かなカラー刷りの美術作品をたくさん世に送り出せるようになりました。 錦絵の製作は、絵師、彫師、摺師の三位一体の分業体制があったからこそ可能だったのです。彼らは対等な関係でチームワークを組んでいたといわれています。錦絵はまさに、当時のグラフィックデザイナー、製版業者、印刷会社が一緒になって実現させた総合芸術でもあったのです。版元についても紙間屋、出版、書店の機能をまとめて受け持っていたのが特徴で、仕事を進めていくうえでの貴...
4.日本における近代印刷の始まり
日本における近代印刷の始まり約450年前にはヨーロッパの近代印刷技法が日本に渡来していた 種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。布教活動のために1590年に印刷所が開設され、活字、インキ、紙、印刷機など必要な資機材が持ち込まれました。これらを駆使する専門の印刷工も来日しています。グーテンベルクが発明した技法が、日本において実行に移された契機となったのです。 こうしてつくられたのが「キリシタン版」と呼ばれる印刷物の数々です。採り上げられていた内容は宗教に限らず、語学や文学など幅広い分野に渡っていたのです。そのなかには、ローマ字で書かれたイソップ物語も含まれていたほどですが、残念ながら、徳川幕府によるキリシタン禁制によって極めて短命に終...
5.その250年後の幕末、日本における近代印刷がスタートを切った
その250年後の幕末、日本における近代印刷がスタートを切った 江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。グーテンベルクが発明した鉛活字が、今度こそ本当に、日本における近代印刷のスタートを切らせたのです。 オランダに造船を依頼していた咸臨丸に乗ってやってきた活版印刷技師が、1857年に寄港地の長崎・出島に印刷所を設置し、持参した印刷用資機材を使った蘭書を何冊か製作しました。これらはオランダ語で印刷されていたのですが、それに強い関心を寄せた人物が日本の近代印刷術の祖といわれる本木昌造でした。本木昌造は、もともとオランダ語の通司(通訳)を仕事にしていた関係で、オランダからやってきた印刷技術の素晴らしさに感銘し、何とか...
全日本光沢化工紙協同組合連合会
全日本光沢化工紙協同組合連合会 設立:昭和42年(1962年)4月28日所在地:〒170‐0002 東京都豊島区巣萌3‐3‐13 (コア・ハナミ201)電話:03-3576-5600 FAX:03-3576‐5656http://www.koutaku.jp/ ■≪沿革・組織≫明治12年にヨーロッパからニス引きが伝えられ、明治17年ごろまでの聞に現在の光沢加工業の礎が築かれた。当初、自家製の松脂であった塗料は、塗料メーカーの研究開発が進み、昭和37-8年ごろにはピニールから合成樹脂を使用するようになった。最初は、線香の包装(防湿)から缶詰のレッテルやポスター(防水)に利用され、戦後の22年ごろから、絵本・メンコ・プロ野球のブロマイド・教科書の表紙・教材地図等に加工されるようになった。光沢加工業の発展とともに業界結束の声が高まり、昭和29年には東京都光沢化工紙協同組合が結成され、昭和42年...
7.築地活版製造所、谷口印刷所などが続々と誕生
築地活版製造所、谷口印刷所などが続々と誕生 その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。築地活版製造所が長崎の活版製造所から引き継いで製作を重ねた書体は「築地体」と呼ばれ、日本で現在使われている印刷文字の源流となっています。 これとは別に、江戸幕府によって1855年に設立されていた洋学所が外国書物の翻訳、教材の出版をおこなうために、以前、オランダから贈られていた欧文活字と鉄製の活版印測機を活かすことにしました。この洋学所は後に開成所(東京大学の前身)と改称されるのですが、そこでは人文科学から社会科学、自然科学まで幅広い分野の教材を広めようと、オランダ語はもちろん英語、フランス語、ドイツ語の翻訳出版を手がけることとなりました。本木昌造...
6.日本の近代印刷術の祖 本木昌造
日本の近代印刷術の祖 本木昌造 オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。そんな経験を生かして自ら日本語の活字開発に挑戦し、さらに、明治に入って早々(1869年)に活版伝習所の開設に漕ぎつけています。 経営していた洋学を教えるための私塾の運営資金に、印刷から得る利益を当てるというのが表向きの理由でしたが、ときあたかも中国・上海で印刷所の館長をしていた活版技師ウィリアム・ガンブルが寄港した際、電気メッキの技術を用いる電胎法という新しい母型製造法を教えてもらう機会を得ました。本木昌造は勤め先も辞めて活字づくりに専念し、明朝体の号数活字をつくる契機にしたのです。<< 5.その250年後の幕末、日本における近代印刷がスタートを切った: p...
8.明治時代の初頭には新聞、雑誌、書物が続々と発刊、日本の近代化と文明開化の流れを、印刷が一段と促した!
明治時代の初頭には新聞、雑誌、書物が続々と発刊、日本の近代化と文明開化の流れを、印刷が一段と促した! このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。1870年に早くも発刊された「横浜毎日新聞」、それに続いた「東京日日新聞」は、その嚆矢となりました。日々のトピックスを報じる絵入りの錦絵新聞が発行されたほか、明治維新から10年の間に、活字印刷でつくられた本は実に3,600点にも達したそうです。 明治政府が推進した近代化と文明開化の流れを、印刷が一段と促したことは疑いようのない史実となっています。「特命全権大使米欧回覧実記」本木昌造が鋳造した活字で印刷された。明治11年(1878) 博聞社刊(ミズノプリンティングミュージアム蔵)<< 7.築地活版製造所、谷口印刷所などが続々と誕生: prev next: 9....
10.日本の印刷機械産業の源泉 明治時代に始まった!
日本の印刷機械産業の源泉明治時代に始まった! 本木昌造門下の平野冨二(現株式会社IHI創立者)は、東京に平野活版所を設け活字類の鋳造、印刷機械類の製作販売を開始しました。この平野冨二と、その後に独立した平野門下の金津平四郎、中島幾三郎および海軍工廠出身の中村金太郎各氏等が我が国の印刷産業機械製作の創始者です。 その後、活版用平圧式手引印刷機(ハンドプレス)、円圧式ロール印刷機(車機械)、手引石版印刷機、石版ロール機が、需要に応じる形で、次第に多く生産されるようになっていきました。また、活字鋳造機、写真凸版のための製版カメラなども開発されました。当時の機械は、機械を運転する動力を人力に頼るため、いずれも四六半裁程度の小型機でした。 当初、印刷機を運転する動力は人力によるものであったが、西南の役前後からの印刷需要の増加に伴い、ガス機関、次いで蒸気機関となり、新聞社、大印刷会社は蒸気機関に...
11.明治の後期、成長へのスタートが切られた!
明治の後期、成長へのスタートが切られた! 明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。また、凸版輪転機による新聞印刷が普及し始め、平らな“組版”から“紙型"を作り、円筒状にカーブさせて“鉛版"を鋳込む “鉛版方式"が採用されていきました。 印測機械を製造するメーカーが増加し、当時主流の凸版印刷機を製造する会社は十数社にもなりました。 平圧凸版印測機、円圧ストップシリンダ式凸版印刷機が続々と製作されました。巻取凸版輪転機も国産化に成功し次々と新聞社に納人されていきました。手引石版および石版ロール機も生産され、ポスター用の大型機も...