11.明治の後期、成長へのスタートが切られた!
明治の後期、成長へのスタートが切られた!
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。また、凸版輪転機による新聞印刷が普及し始め、平らな“組版”から“紙型"を作り、円筒状にカーブさせて“鉛版"を鋳込む “鉛版方式"が採用されていきました。
印測機械を製造するメーカーが増加し、当時主流の凸版印刷機を製造する会社は十数社にもなりました。
平圧凸版印測機、円圧ストップシリンダ式凸版印刷機が続々と製作されました。巻取凸版輪転機も国産化に成功し次々と新聞社に納人されていきました。手引石版および石版ロール機も生産され、ポスター用の大型機も作られました。
これらの機械は、国内はもとより輸出も行われるようになり、また、後加工機である手引断裁機や手廻断裁機、針金綴機なども国産化されていきました。
このように、日本の印刷機械産業が成長にスタートを切った時期が、まさにこの明治後期でした。
石川式輪転機 (1907、東京機械製作所)
煽り式輪転機 (1912、東京機械製作所)
石版印刷機(1925頃) (小森機械製作所、現小森コーポレーション)
石踏式ロール印刷機 (明治中期、印刷製本機械百年史)
手引断裁機、ケトバシ型針金綴機 (明治後期、印刷製本機械百年史)
石踏式活版印刷機 (明治後期、印刷製本機械百年史)
明治末期の印刷機械工場とその徒弟 (印刷製本機械百年史)
木製製版用カメラ (大正~昭和初期、印刷製本機械百年史)
製版用カメラ(SCREENグラフィックソリューションズ)
写真植字機 (最初の実用機、昭和4年、印刷製本機械百年史)
<< 10.日本の印刷機械産業の源泉 明治時代に始まった!: prev
「印刷の歴史」トップ
紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。