10.日本の印刷機械産業の源泉 明治時代に始まった!
日本の印刷機械産業の源泉
明治時代に始まった!
本木昌造門下の平野冨二(現株式会社IHI創立者)は、東京に平野活版所を設け活字類の鋳造、印刷機械類の製作販売を開始しました。この平野冨二と、その後に独立した平野門下の金津平四郎、中島幾三郎および海軍工廠出身の中村金太郎各氏等が我が国の印刷産業機械製作の創始者です。
その後、活版用平圧式手引印刷機(ハンドプレス)、円圧式ロール印刷機(車機械)、手引石版印刷機、石版ロール機が、需要に応じる形で、次第に多く生産されるようになっていきました。また、活字鋳造機、写真凸版のための製版カメラなども開発されました。当時の機械は、機械を運転する動力を人力に頼るため、いずれも四六半裁程度の小型機でした。
当初、印刷機を運転する動力は人力によるものであったが、西南の役前後からの印刷需要の増加に伴い、ガス機関、次いで蒸気機関となり、新聞社、大印刷会社は蒸気機関によるメインシャフト、ベルト掛け方式を採用していきました。
動力の電力化は明治後期から始まりますが、完全に電力に変わったのは1923年の関東大霙災後となります。
機械遺産「平野冨二」ハンドプレス
(ミズノプリンティングミュージアム蔵)
石版ロール印刷機
(明治後期、印刷製本機械百年史)
「石版印刷機」
(ミズノプリンティングミュージアム蔵)
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紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。