9.明治期の印刷技術 明治時代の印刷方式はどうだったのでしょうか?
明治期の印刷技術
明治時代の印刷方式はどうだったのでしょうか?
明治初めには木版法の他に、銅凹版法、石版法などがありました。銅凹版技術は長崎通詞を経て1700年代の終わり頃に司馬江漢、亜欧堂田善に伝わりましたが、この腐食銅凹版の技術を受け継いだ松田敦朝は明治初年太政官の金札の彫刻を行いました。この門下の石田旭山の子孫は1943年に製版機メーカーを興しています。石版法は、明治初年、絵画と写真術を研究していた下岡蓮杖、横山松三郎などにより伝来しました。明治10年の西南の役のころまでは木版、凹版、石版、活版の方法が並立していて、いずれが本流か見通しのつかない状況でした。
しかし、需要が増えるに従い、文字の印刷は、組版が迅速で印刷機の使用が可能な活版が次第に頭角を現してきたのです。また、雑誌の表紙や口絵には、生産性の良い石版法が次第に主流になっていき、銅版彫刻師の中では、石版業に転向する人が多くなっていきました。
乗合馬車チラシと版木
明治初年頃(ミズノプリンティングミュージアム蔵)
石版石
水と油の反発作用を利用して画像部にインクをのせる平版印刷をリトグラフというが、
これに使用される版、材質は石灰石。
(ミズノプリンティングミュージアム蔵)
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「印刷の歴史」トップ
紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。