3.錦絵は色彩豊かなカラー刷りの美術作品
錦絵は色彩豊かなカラー刷りの美術作品
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。色ごとに絵柄の異なった木版を何枚も彫り、重ね刷りすることで、色彩豊かなカラー刷りの美術作品をたくさん世に送り出せるようになりました。
錦絵の製作は、絵師、彫師、摺師の三位一体の分業体制があったからこそ可能だったのです。彼らは対等な関係でチームワークを組んでいたといわれています。錦絵はまさに、当時のグラフィックデザイナー、製版業者、印刷会社が一緒になって実現させた総合芸術でもあったのです。版元についても紙間屋、出版、書店の機能をまとめて受け持っていたのが特徴で、仕事を進めていくうえでの貴重な示唆を与えてくれます。
この錦絵は急速に発展し、江戸後期の寛政年間(18世紀末)に爛熟期を迎えるまでになりました。歩調を合わせるかのように、天才的な画家が次々と誕生し、喜多川歌麿、写楽、葛飾北斎、安藤広重らを輩出した背景には、木版印刷があったことを見落してはなりません。
安藤広重「日本橋之白雨」の版木(復刻)と版画。
絵は19回の刷りを重ねて完成する。
(ミズノプリンティングミュージアム蔵)
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紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。