第10話 印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」

印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」


フランスのニセフォール・ニエプスが1810年代に見出した写真術は、印刷の技術を変革させると同時に、印刷がもつ役割をも拡げるという両面で決定的な影響を与えました。

ニエプスはまず、塩化銀を塗布した紙に、撮影した映像をネガ画像として定着させることに成功し、さらに共同研究者とともに、アスファルトの利用によってポジ画像にする技術を開発しました。その後、露出時間を短縮するために、水銀を塗布した板に写し出した潜像を、水銀の蒸気で現像するシステムを確立しています。1840年代になって、イギリスのフォックス・タルボットという人が、硝酸銀と沃化銀を塗布したガラス板にいったんネガ画像をつくり、密着させた印画紙に現像してポジ画像として定着させる方法を考え出しました。これは、写真を何枚も複製できる画期的なやり方でした。

この写真技術は、すぐに印刷にも応用されるところとなりました。写真技術の確立から10年も絶たないうちに、感光性をもたせた金属板に露光することで凹版がつくられ、同じように石版に投射することで平版がつくられているのです。さらに20年後の1870年代初期、亜鉛板に映像を露光してから腐食して線画凸版をつくる製版法が開発されますが、この凸版製版技術を発展させたのが、網点によって濃淡のある写真を形成する網目写真版でした。その後、製版用フィルムに網点入りの写真を現像し、密着させた金属の刷版に印刷画像として露光するという方法が考え出されたのも、必然的な流れだったわけです。色版別につくって重ね刷りすれば、カラー印刷も可能という画期的な発明でした。

印刷物というと、とかく文字が中心となりがちだったのですが、凸版の場合、活字組版したページのなかに亜鉛凸版を組み込むことで、早い時期から絵柄の入った書物が読めるようになりました。写真が印刷できるということは、グラフィックな表現が可能になったことを意味しています。その結果、商品を販売するための広告媒体、販促メディアとしての役割が、印刷物に求められるようになり、それまでの出版印刷と並ぶかたちで、商業用印刷の分野が確立していったのです。書籍に加えて雑誌が隆盛となっていったことにも、写真印刷の技術が大きな役目を果たしました。

写真はまさに、絵柄が自由に彫れていた木版印刷に、近代印刷技術が追いつくことのできたきっかけとなりました。印刷業界にデジタル化の波が押し寄せる1980年代まで、ネガの文字盤を通して印画紙に文字の形を露光していく写真植字が、活字組版の後を受けて一時代を担っています。写真の技術は、平版からオフセット印刷、凹版からグラビア印刷、凸版からはフレキソ印刷といった具合に、現在、一般に使われている印刷方法に発展させた格好の刺激剤となったのです。

 

<< 第9話:日本における近代印刷は本木昌造で始まった : prev

印刷の歴史のコンテンツ一覧
前史
紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
第1話
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
第2話
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
9.明治期の印刷技術   明治時代の印刷方式はどうだったのでしょうか?

明治初めには木版法の他に、銅凹版法、石版法などがありました。

第3話
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
第4話
グーテンベルクが発明した活版印刷術
第5話
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
第6話
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
第7話
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
第8話
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
第9話
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
第10話
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
“明治150年”記念展示 「日本の印刷の歴史」 ―江戸から明治期における日本の印刷技術―

2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。

1.「百万塔陀羅尼経」現存する世界最古の印刷物!

日本の奈良時代(8世紀中葉)につくられた「百万塔陀羅尼経」は、開版年代が判明していて、しかも現存する印刷物としては世界最古のものです。

2.江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷

 元禄期(17世紀末~18世紀冒頭)、文化・文政期(18世紀末~19世紀冒頭)に象徴される江戸の文化を根底から支えたのが、木版印刷による出版物でした。

3.錦絵は色彩豊かなカラー刷りの美術作品

この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。

4.日本における近代印刷の始まり

種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。

5.その250年後の幕末、日本における近代印刷がスタートを切った

江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。

7.築地活版製造所、谷口印刷所などが続々と誕生

その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。

6.日本の近代印刷術の祖 本木昌造

オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。

8.明治時代の初頭には新聞、雑誌、書物が続々と発刊、日本の近代化と文明開化の流れを、印刷が一段と促した!

このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。

10.日本の印刷機械産業の源泉  明治時代に始まった!

本木昌造門下の平野冨二(現株式会社IHI創立者)は、東京に平野活版所を設け活字類の鋳造、印刷機械類の製作販売を開始しました。

11.明治の後期、成長へのスタートが切られた!

 明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。