第6話 日本にも伝来していた金属活字による印刷術
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も入ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。布教活動のために1590年に印刷所が開設され、活字、インキ、紙、印刷機など必要な資機材が持ち込まれました。これらを駆使する専門の印刷工も来日しています。グーテンベルクが発明した技法が、日本において実行に移された契機となったのです。
こうしてつくられたのが「キリシタン版」と呼ばれる印刷物の数々です。採り上げられていた内容は宗教に限らず、語学や文学など幅広い分野に渡っていたのです。そのなかには、ローマ字で書かれたイソップ物語も含まれていたほどですが、残念ながら、徳川幕府によるキリシタン禁制によって極めて短命に終わってしまいました。
ヨーロッパからの伝来とは別に、朝鮮からも金属活字が伝えられています。豊臣秀吉が持ち帰った銅活字のことなのですが、印刷のための資機材一式とともに印刷工も連れてきたそうです。キリシタン版と違って、こちらの方は時の権力者に認められ、16世紀末には、秀吉に献上された宮中から古文書研究の書物が出版されるなどしています。
銅活字の存在を知った日本においても、中国や朝鮮と同じように木活字が生み出されました。徳川家康が江戸に幕府を開いたのは1603年のことでしたが、銅活字と木活字による活版印刷術は、当時の慶長年間から40年代の寛永年代に至るまでの半世紀にわたって隆盛を極め、一時期を画したと評価されています。
征夷大将軍になったばかりの徳川家康がとくに力を入れたのが、幕藩体制を強化するために必要な儒教を官学とすることでした。有名な「伏見版」「駿河版」は、配下の武士階級を学ばせる文教政策のもとで、木活字、銅活字でつくられたのです。
活字の文選組版が煩わしい作業を伴ったせいか、その後17世紀中頃にはすぐ木版印刷に取って代わられ、明治初期に再び近代活字印刷が出現するまで、金属活字が用いられることはありませんでした。それでも、この時代の書物は「古活字版」と定義されて、歴史上、異彩を放っています。
印刷された書物は政府や寺院による経典、和漢の本はもちろん、民間人による医学書、国文学書、謡本など多岐にわたっていて、当時の社会が成熟化していく過程で、印刷・出版に関心が集まっていたことを伺わせます。伊勢物語、徒然草、方丈記、百人一首、新古今和歌集、三十六歌仙などで知られる平仮名交じりの国文書である「嵯峨本」も、木活字を使ってこの時期につくられていて、江戸の文化、芸術の道を切り拓いた「古活字版」の面目躍如たるものがあります。
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紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。