第5話 ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
ヨーロッパにおける木版印刷は、15世紀初頭に元代の中国から版木がもたらされて本格化しました。十字軍やマルコ・ポーロによって、あらかじめ紙や印刷方法に関する情報が伝えられていたこともあって、すでに普及する社会的環境にあったのかも知れません。 持ち帰った版木をみながら刻版の技法を学び、宗教画、カルタ(中国伝来)、教会の免罪符、挿絵などの印刷に盛んに用いていたのです。免罪符に関しては、これまで1枚々々、修道僧が書写していたのが、一気に大量複製できるようになったことから、それを無制限に発行して寄付金集めに走った教会が堕落の道を辿った結果、後の宗教改革を引き起こしたというエピソードさえあります。
木版印刷が普及してすぐに、グーテンベルクによって活版印刷が発明され、それとともにヨーロッパにおける木版印刷は一気に衰退に向かいました。中国や日本と違って、本当に短命に終わってしまったのです。
しかし、当地の木版印刷は18世紀以降「木口木版」というかたちでしぶとく生き残り、現在でも芸術の分野で独自の役割を担っています。木版印刷というと一般に板目木版が想像されますが、この木口木版は、堅い木材(柘植、桜など)に菱形の彫刻刀で緻密な絵柄を彫るのが特徴で、重版を求められる絵画/図絵などの印刷に使われてきたのです。
木版印刷が衰退するのと入れ替わるかたちで、銅版印刷が登場してきました。15世紀末のことでした。銅版の技法を絵画並みのレベルに高めたデューラーは、他の彫刻師がそうであったように、金細工とデッサンの技術を身につけ、木版彫刻から銅版彫刻に乗り換えて第一人者の地位を築きました。
当初は、銅版に彫刻刀を使って凹線を彫り、そこにインキを埋めて紙に転写(凹版印刷)するというエングレービング技法が主流でしたが、17世紀になると、針で点描した箇所を塩酸や硝酸で腐食するエッチング技法、さらには、グラデーション表現を可能にするメゾチント技法が開発されました。油絵の複製などで大いに活躍したのですが、18世紀末に石版印刷が発明されるや否や、その存在意義を失ったのです。
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紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。