第4話: グーテンベルクが発明した活版印刷術
グーテンベルクが発明した活版印刷術
近代印刷術の祖といわれるのがドイツの金細工師ヨハネス・グーテンベルクです。1450年頃、活字の開発とそれを使った活版印刷術を発明し、出回った数多くの書物が、人々の知識欲を満たし情報を広めたことが、ヨーロッパにおける文芸復興(ルネッサンス)、宗教改革、近世社会の到来に大きく貢献したのです。詩篇や免罪符から手掛けて活版技術を習得したグーテンベルグが、集大成として印刷した「42行聖書」「36行聖書」「カトリコン」は、印刷の歴史上、大変貴重な資料となっています。
中国、朝鮮、日本といった東洋では、木版印刷の隆盛が長く続きました。活版印刷がずっと途絶えていたのとは対照的に、ヨーロッパでは中世以降つい最近まで、500年もの間、グーテンベルグの活版印刷術は印刷技術史の主座にあり続けてきたのです。世界の印刷産業をリードしてきた大発明であったといっても過言ではありません。
グーテンベルクはまず、金属活字の材料として鉛と錫、アンチモンを混ぜた合金を採用しました。これは低温で溶解する性質をもっているため、比較的簡単に鋳造できる利点があります。鋳型(母型)についても砂を固めたものではなく、真鍮を使ったものを採用して、品質精度の高い活字を鋳込めるように工夫したのです。鋳込みによる金属細工の技法がすでに確立されていた事実から、グーテンベルクにも成功の自信があったのではないでしょうか。
印刷機を考案して、手作業では及びもつかない大量複製を可能にしたことも画期的でした。当地で古くから使われていたブドウやオリーブ油の絞り機からヒントを得て、ネジ方式で上から押圧するという仕組みの印刷機を設計したのです。平圧式の凸版印刷機の誕生です。その頃の印刷機は木製で、18世紀末に鉄製に変わるまで同じ型の印刷機が使われてきました。18世紀に入ると、円圧式、輪転式の印刷機械が開発されるのですが、それまで長い間、印刷機の基本的な構造だったのです。
15世紀には、すでに中国から紙の抄造法が伝わっていて、グーテンベルグ誕生のドイツにも本格的な製紙工場が設立されています。印刷に使える紙を手に入れやすくなっていたのは想像に難くありません。絵画用の油絵の具が開発され、それに伴って油性の印刷インキもつくられたのですが、このように、活字印刷術を取り巻く環境がすでに整っていたからこそ、グーテンベルクの発明は成功したといってよいでしょう。後世になって、この活版印刷術は羅針盤、火薬とともに、ルネッサンス期の三大発明といわれたほど、偉大な成果でした。
ご参考トピック:
「見直される活版印刷―活版TOKYO2017 クリエイティブの領域で新たな魅力」
「レタープレス」 日本グラフィックコミュニケーションズ工業組合連合会 (GCJ)の「GCのトビラ プロのものづくり集」より
<< 第3話:世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字 : prev
next: 第5話:ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版 >>
紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。