第2話: 世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
日本の奈良時代(8世紀中葉)につくられた「百万塔陀羅尼経」は、開版年代が判明していて、しかも現存する印刷物としては世界最古のものです。当時は歌集や経典、さらには史実の記録などに関する書写が盛んになってくる時代でした。そんな社会環境を考えれば、この「百万塔陀羅尼経」が印刷技術によって大量に複製されたのには、必然性があったといってよいでしょう。
では、「百万塔陀羅尼経」は、どんな時代背景のもとでつくられたのでしょうか? 史実によると、称徳天皇が道鏡(僧侶)を重用したことを不満に思った大臣の藤原仲麻呂が、排斥を要求するクーデター(恵美押勝の乱)を引き起こしました。それを平定するための戦いで双方に大勢の死者が出たのですが、これを悼んだ称徳天皇が770年に、供養と平和祈願のために勅願し製作したのが百万塔でした。6年の歳月をかけて高さ20㎝ほどの小さな三重の塔を木材で百万基もつくり、地元・奈良のお寺を含む近畿地方の国分寺(10大寺)に、それぞれ10万基ずつ奉納したのです。
「百万塔陀羅尼経」は、その塔のなかに収められていました。残念なことに、現在残っている塔は法隆寺に安置された分だけです。それでも4万5千基以上あり、陀羅尼経(無垢浄光経)も約2千巻が確認されています。幅5.4㎝ほどの小さな巻紙の状態で収納されていました。
陀羅尼経の経文は自心印、根本、相輪、六度の各陀羅尼経があるのですが、そのうち最も長いのは根本陀羅尼経で長さ51.5㎝、最も短い六度陀羅尼経でも長さは27.2㎝あります。そこに1列5文字の経文が整然と印刷されているのですから、天皇が心から追悼の念を抱いていたことがよく分かります。
用紙の材料としては麻、黄麻、殻(かじ)の3種類を使っていたと考えられています。問題は版の材質です。当時の技術レベルから木版を使用していたと考えるのが自然なのでが、果たして100万部も摺る耐刷力があったのでしょうか? 途中で摩耗してしまうのではないかという疑問が付きまといます。銅版も考えられないわけではないのですが、技術的に製作可能であったのかどうか、大変疑問です。開版年代が判明している割には、よく分らない謎が未だに残っていることは、世界最古の印刷物に相応しいのかも知れません。
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紙は中国で発明され、世界へ広まっていった
木版印刷の始まりは中国での“摺仏”から
世界最古の印刷物として有名な「百万塔陀羅尼経」
世界で初めてつくられた金属製の朝鮮活字
グーテンベルクが発明した活版印刷術
ヨーロッパで一時期を築いた木版と銅版
日本にも伝来していた金属活字による印刷術
石版印刷の発明が導いたオフセット印刷
江戸時代の文化と栄華を支えた木版印刷
日本における近代印刷は本木昌造で始まった
印刷の技術と役割を大きく変えた「写真」
2018年は明治元年(1868年)から満150年の年にあたります。近代印刷の歩みであるこの150年間に日本の印刷技術がどのように進化していったかをご紹介いたします。
この頃の木版印刷といえば、多色刷りの「錦絵」(浮世絵)を忘れることはできません。浮世絵は江戸初期の元禄時代に墨刷り1色の版画で始まっていますが、1760年代に、鈴木春信が木版を使った多色刷り版画の手法を確立したのを機に、完成度を高め錦絵と称されるまでになったのです。
種子島に鉄砲が伝えられたのは1540年代のことでした。このとき当然、ヨーロッパの文化やキリスト教も人ってきたのですが、天正遣欧使節団を通じて伝えられた知識に、金属活字による印刷術がありました。
江戸時代が始まる直前に日本にきたヨーロッパの金属活字印刷術が、幕府のキリシタン禁制令によって突然、その姿を消してから250年後、くしくも江戸時代が終わろうとする幕末に、再びヨーロッパから活字印刷の技術がやってきました。
その後、本木昌造の門弟であった平野冨二が東京で築地活版製造所、谷口黙次が大阪で谷口印刷所(大阪活版所)をそれぞれ設立するところとなり、本木昌造を起点にして日本の近代活版印刷は裾野を拡げていきました。
オランダから船で持ち込まれた活字と印刷機を設備に、長崎奉行所が1856年に活字判摺立所を開設したとき、本木昌造は取扱掛に任命されて、実際に、和蘭書や蘭和辞典の印刷刊行に取り組んでいました。
このような活版印刷は、明治時代の初頭から日本の社会に急速に浸透し、新聞、雑誌、書物の分野で存分に力を発揮していきました。
明治時代後期には、当時の社会情勢に応じて印刷需要も好調となりました。カラー印刷技術が進歩し、製版工程にて分色技法による三色版を製作し、凸版方式によりカラー印刷する“原色版印刷"が普及し始めました。