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  平成22年 新春特別企画セミナー (平成22年1月28日 開催)
「ブレイクスルーへの挑戦」
 
―迎える2010年は“パラダイムシフト元年”の年に― 
       講演 富士株式会社 代表取締役
           アニス株式会社 取締役    眞柄 泰利 氏            ←セミナートップ
「日本の論点2005」文芸春秋刊 (PDFファイル)
  それと、こちらは「日本の論点」、文藝春秋さんに二度ほどマイクロソフトのときに寄稿させていただきました。いずれも知的財産に関しての話です。2005年版にたまたま中国の知財に対する意識を書いておりました。生意気なようですが5年前に私が高らかに言っていたことが、今、中国の政府調達のIT関連製品については内部の情報を開示しなさいという条件付きでいろいろやっています。もともとはIT関連製品すべて中身を公開しろという話だったのです。  
中身公開というのは、例えばプリンターにしても、デジタルカメラにしても、写真をいかにきれいにするかというのは、あのファームウエアの中にソフトウエアで入っているわけです。そのプログラムの内容を公開しないかぎり中国では売らせませんよという話です。公開したらどうなるかおわかりですね。著作権という法律はあるのですが、なかなかきれいに運用していない国ですので、その辺のところを書いていたのです。あとでこんなような話に触れますのでご参考にということで配布いたしました。
私にとってはブレイクスルーというのはどこだったのかということから始めます。
実はここに97年、ビル・ゲイツからチェアマンズ・アワードというのをもらいました。当時すでにグローバルカンパニーとして、社員はだいたい2万人くらいいたのですが、世界各国から年1回集って、その年度のビジネスのキックオフのミーティングをするのです。そのときに最優秀のマーケティングとか、セールスをした人が選ばれます。その当時はアメリカ、ヨーロッパ、アジアの三つの地域から1名ずつチェアマンズアワードが選ばれますが、この年は私が選ばれました。  
そのときにもらった楯に「ブレイクスルー」と書いてあったのです。初めて実体験で「ブレイクスルー」を体験したのがそのときです。  
当時、日本語ワープロとしては、一太郎が90%くらいシェアを獲得していました。93年に私はマイクロソフトに移りまして、アメリカ人がつくった日本語ワープロを、とにかく販売シェアを上げなさいという命を受けました。  
それを達成したのがこの年でした、当時、ビル・ゲイツは、半年に一度日本に来て、ビジネス・レビューと技術のレビューをしていました。半日くらいかけて、開発の進捗は一体どうなっているのか、と。  
たとえば、アメリカ人のつくったワープロというのは、縦書きという考えはありません。横書きしかない。しかも カーソルは左から右に動くしかありません。アラビア語は右から左ですし、日本語は縦書きです。しかしまったくそういう機能がなかった。それでは一太郎には勝てないということで、当時、必死に開発のリソースを割いていました。日本語ワープロは日本市場におけるマイクロソフトの一番の問題だったのです。なぜ日本だけ「Word」が売れないのかというようなところに、マーケティングと開発が協力してひっくり返したのがこの時期でした。そういうことで、私にとって一番大きなブレイクスルーというのはこのときであったと思います。  先ほど申しましたが、これが楯です。ここに「ブレイクスルー」と書いてあります。  
いくつか私自身のキャリアのなかでスイッチを切り替えた時点があります。振り返ってみますと、大学は、ハワイにいましたので、日本に戻ってきて、一つのブレイクスルーというか、変化が私には訪れたと思います。  
当時を振り返ってみますと、メインフレームとかミニコンが全盛の時代でした。アナログ技術が全盛で、まだまだデジタル技術、電話機までデジタルになるみたいなことは到底考えられないような時代でした。私は商社に入りまして、在職中はほとんどが筑波にあります通産省の工業技術院の製品科学研究所という、今の産総研で研修をしていました。  
2番目は、やはり商社というのはメーカーではないので、メーカーにちょっと興味を持ちました。そのころ必死に言われていたのが、ソフトバンクの孫正義さんが神童と呼ばれて、西和彦さんがパソコンの天才といわれていた時代です。この二人が業界をリードしていたと思います。  
その孫さんの会社にお世話になりまして、そのときにまたいろいろな経験をさせてもらいました。ソフトウエア自体はまだまだ著作権が保護されていないような時代で、黎明期という感は脱せないような時代でした。当時、ソフトウエアは、産業ともいえないくらいの規模でした。当時はお菓子の二木グループの年商200億円。たまたまテレビを見ていたら、二木グループの特集があり、年商が200億円だとおっしゃっていました。ソフトウエア全体の業界が当時200億といわれていた時代でした。ソフトウェアの市場はお菓子の二木ぐらいなんだなと思ったのを今でも覚えています。そんなような状況でしたが、今では何兆円産業です。そうなった過程の中に私が身を置かせていただいたということです。
次のブレイクスルーは、ソフトバンクからジャストシステムという徳島のメーカーに入ったときになります。私が入ったときのジャストシステムは、まだ20人くらいの会社でした。当時は、まだまだ浮川さんも若く、毎日のように夢を語って、日本語のワープロのすばらしさを社員全員に直接浸透させるくらいのときです。  
このころようやく、著作権でソフトウエアが保護されたりしていたわけです。私が入ったときは3億円。それが9億円になって30億円くらいになって、というときでしたので、倍々どころかものすごい勢いで業界自体が伸びていったときです。  
それはなぜできたかというと、やはりオリジナルな技術を持っていて、それをうまくマーケティングして、うまいことパソコンのシェア100%持っていたNECとのチャネルづくりを、一緒にさせていただき、そこには携わらせていただいたというのが一つ大きかったかなと思います。
そのあと、私はマイクロソフトにいくのですが、マイクロソフトはOSですね。私が入った当初は、プロダクトサポートといいまして、クレーム処理をやっていました。毎日、10本以上のクレームの電話を処理していました。  
とりわけ1995年は、ウィンドウズ95というのが出たときにで「社会現象」とまでいわれまして、パソコンを持っていない人まで買ったのです。「買ったけれども、動かないじゃないか。どうしてくれるんだ」と。「お客様、ちゃんとインストールしましたか」というと、「なんだ、そのインストールというのは」という。聞くと、パソコンは持っていない。そんな時代でした。  
その後、どんどんシェアが上がって、アメリカの司法省から独占禁止法の疑いで訴追をされたのはご存知の通りです。その時期、やはりシェアがあっただけに会社のビジネスは傲慢な面もあったかと思います。そのころマイクロソフトは初めて顧客満足度調査をしました。結果、顧客満足度はまったくなっていない。競合メーカーとの対比でもまったくマイクロソフトの意識は低い、ということで非常に悩んだ時期があります。どうしたらいいのか。  
2000年を境に、顧客満足度調査に対して、一つひとつ満足度を上げるような施策も打ってきました。 マイクロソフト在任中の最後の4年くらい、2005年から2008年の辞めるまで持っていたのは、先進国がどんどん低成長時代に入りました。ひょっとすると日本のIT業界はマイナス成長くらいです。その中で私はある程度の役職を与えられて、やらなければならない仕事は引き算でした。引き算の経営学というか、引き算のマネジメントでした。  
どういうことかというと、PLを見て削るものは削る。そこからは新しい戦略もなければ、戦略マップも出てこないのです。いろいろな話をしても、みんなから出てくるのは、やめよう、というための資料づくりです。
こんなことをやろうではないかということに対して、いろいろ分析します。昔だったら、どんどんやりましょうという意識が、この数年間は、リーダーがマイナスになってしまっているので、まわりにいる人たちも、何かを議論すると、最初は「やろう」という話ですが、出てくる資料で議論し始めると、すべて「だめ、だめ」の大合唱になってしまうというのが連続していました。  
そんな中で、中国のほうのマイクロソフトのチャネル立ち上げに協力したときに、中国の私のカウンターパートだったジェネラルマネージャーの方のライフスタイルが非常に興味深かったので、そこが一つ、今回私が会社をつくるに至った契機です。  
どういうことかといいますと、私が一緒に仕事していた中国人は、マイクロソフトの中でトップ下の人間です。どんなスタイルかというと、例えばスキー、雪が好きなんです。年に2度スキーに行きます。ニュージーランドとフランスです。必ずスキーに行っていました。あとは、子どもの教育にもかなりお金をかけていました。例えば子どもの習い事はバイオリンを習わせていました。あるとき、デンマークでミーティングがありました。ミーティングが終わったとき、「ちょっとつき合ってくれないか」と。どこに行くのかと思ったらバイオリンショップに連れていかれました。「子どもにバイオリンのおみやげを買うんだ」と言う。そんなことは聞いたことも見たこともなかったので、ある意味、大変ショッキングでした。着ているものもいいです。  
そこでいろいろ調べていったときに、恐らく日本型のライフスタイルに対して相当な憧れを持っている。当時は、まだまだ招聘状を書かないと日本に来れない時代で、観光で来れなかった時代です。昨年の7月から個人でようやくある制限のもとに来れるようになっていますが、なかなか来れない、憧れも含めて、日本のサービスとか、ものづくり、あるいはそれに対する意識とか成果物は非常に彼らにとって魅力の高いものかなと思いまして、私のほうでひとつブレイクスルーを起こそうということでありました。
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