ある日、麻生様というお客さまがレストランで食事を済まされて1階に下りてこられて、ドアマンに「君、麻生というんだけど、タクシーを1台呼んでくれないか」。
普通でしたら「かしこまりました。少々お待ちください」、そしてしばらくしてタクシーが来たら、「お待たせしました。タクシーがまいりました。どうぞ御案内いたします」と、ドアを開けて乗っていただいて、「ありがとうございました」という。
「ミスター・ハヤシダ、いま説明したところに、心からのおもてなしがありますか。我々は、ホスピタリティ産業ですよ。心からおもてなす産業ですよ。そこに心がありますか。そのくらいだったら、中学生の子どもでも、30分指導すれば、事務的なこと、業務的なこと、機能的なことくらいだったら、だれでもできますよ」。そういったあとに、こうやって指導してくれたのです。
「麻生様、本日は私どものレストランをご利用くださいましてありがとうございます。麻生様、タクシーは10分ほどかかりますけど、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」。しばらくしてタクシーが来たら、「お待たせしました。タクシーがまいりました。どうぞご案内させていただきます」。
ドアを開け乗っていただいたら、「タクシードライバーさん、ご苦労さまです。私どもの大切なゲストですので、目的地まで安全にお見送りよろしくお願いいたします。麻生様、ありがとうございました」。ドアを閉め、タクシーは流れていきます。一歩前に進んで、タクシーの後ろに丁寧なお見送りのあいさつをする。突き当たり右か左に流れていきます。最後の感謝の念をこめて心から「ありがとうございます」と会釈をする。玄関前には、5人、10人の人たちが常にその丁寧なごあいさつ、見送りを見ていらっしゃいます。
彼はそう言ったあと、「ミスター・ハヤシダ、まず徹底してお名前をお呼びするように、一人ひとりのお客さまは特別ゲストとして、すべてのお客さまが我々のVIPなんだ、そういうふうにして名前をお呼びするように指導してあげてくれないか」。
そして、レストランマンがレストランをご利用してくださったあとに「ありがとうございました」というのは当たり前である。ドアマンもホテルの大使です、代表です、ドアマンとして、代表として、お客さまに心から「ありがとうございます」と感謝の念を伝えるように指導してください。そしてタクシーがいつ来るのかわからないような状態ではだめですよ。「10分ほどかかりますが、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」。10分もあれば化粧室にいかれる時間もあるでしょう。お電話をなさる時間もあるでしょう。そこまで気くばりしてください。心くばりをしてください、安心してお客さまはゆっくり待っていらっしゃれるでしょう。
そして「少々お待ちください」と命令調ではだめです。「少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか」、常にお客さまに柔らかく確認するように心がけるようにしてください。
電話もそのように指導してください。「少々お待ちください」というのと、「少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか」というのと、また「タクシーがまいりました」というとき、「麻生様」と声をかける。そしてまた「麻生様、ありがとうございました」「タクシードライバーさん、ご苦労さまです」と、わずかそのひと言は、タクシー業界に広がっていきました。
「あそこのドアマンたちは、我々運転手にまで『ご苦労さま』といってくれる」。そういうふうにして口コミを戦略化していく。タクシードライバーさんには特に私たちは気をつかいました。オープン後、1週間です。ご挨拶状を入れてお弁当を約2,000個を配りました。
そして3カ月くらいしたときでしょうか。ある日、私もタクシーに乗る機会があって、「運転手さん、すみませんが、リッツ・カールトンにいってくれませんか」といいましたら、運転手さんは「ああ、リッツ・カールトンですか。いやあ、お客さま、あそこはね、オープンのとき、我々運転手にまでお弁当と丁寧な総支配人さんのご挨拶状をいただいたんですよ。あそこはサービスがいいらしいですなあ」。15分間乗っている間に5分間くらいはPRしてくださるんです。私がリッツ・カールトンの社員だとはわかりません。運転手の方たちへの「ご苦労さまです」のひと言が、そうやって広がっていくのを肌で体験させていただきました。
お客さまはどうでしょうか。「麻生様、麻生様、麻生様、麻生様」と4回呼ばれて、「私どもの大切なゲストですので、目的地まで安全にお見送りよろしくお願いいたします」といわれたら、どんな気持ちでお帰りになりますでしょうか。
そういうふうにして、彼は私に熱く問いかけてくれたのです。
「本当にこの一枚のクレドカード、抽象的な言葉を一つひとつ、その部署に置き替えて、具体的に拡大解釈して、そして行動レベルに落として指導しないかぎりは、これは紙切れに等しいんだよ」。そのとき私は、このクレドカードがいかに重要であるかということに気づきました。
また、「快適さ」を提供することに対してはこんな話をしてくれたのです。
「ミスター・ハヤシダが言うように、24℃の空調はまさに適温である。しかし、それだけじゃないよ。ロビー周りを想像してくれないか。快適さというのは、こういうことではないか。絵画だってあるだろう。斜めになっていないだろうか。ほこりは付いていないだろうか。手形が付いていないだろうか。お花が飾ってある。一輪の花も首をかしげていないだろうか。葉っぱにほこりはないだろうか。BGMが流れている。朝はさわやかなBGMが流れているだろうか。昼は少し躍動的なBGMに変えているだろうか。夕方になれば落ち着いた静かなBGMに変えているだろうか。
ロビー周りだったら、フロントマン、コンシェルジュ、ロビーサービス、ドアマン、いつも清潔感溢れる笑顔でお客さまとフレンドリーに会話を交わしているだろうか、親しみをこめて、いい対応しているだろうか、そんな状況になったとき、ロビー周りは『快適さ』というんですよ。お客さまに心豊かな一時を過ごしていただく、満ち足りた幸福感を味わってお客さまに帰っていただく、そのためにはそこまできめ細やかなことをお客さまに提供しなければいけませんよ」。
私はそのとき、もう52〜53歳でした。いままでの職場で、経営理念、社是、社訓がありました。立派なものがありました。しかし、経営陣も我々幹部も、それを熱く具体的に語ったことなんか一度もありませんでした。それで本当にまっすぐな方針が立つでしょうか。私を指導してくださったゼネラルマネジャーは、そこが違ったのです。そうやって自らも、幹部を一人ひとり具体的に指導してくれるのです。
そしてトレーナーを育て、伝道師を育てて、私が7年後にやめたとき、100人のトレーナーたちが10組のプロジェクトをつくって勉強会の積み重ね、テストをやったり、いろいろなことをやりながら、このクレドを徹底的に理解させ、行動レベルまで落とす。そこがいままでのホテルと違ったような気がいたします。
先ほど申しましたように、292室のホテルだったら、大阪で最高にいっても、80億円売り上げればいいほうです。それが約120億円です。考えられない数字です。サービスが売り物ですから、ゼネラルマネジャーは、サービスポリシーを一つずつ発表していきました。
最初に発表したのは、「『ノーと言わないサービス』を提供していこう。お客さまから言われたことは限りなく対応してあげてください。お客さまのわがままを目一杯聞いてあげてください。お客さまから言われたことはすべてに対応してあげてください」。
マネジャークラスは約80人います。ある日、ゼネラルマネジャーは、その80人を招集しまして、「この『ノーと言わないサービス』こそが他のホテルとのサービスの差別化ですよ。お客さまに感動を与えるんですよ」、そういう位置づけのなかで熱く語りました。
しかし、マネジャークラスは、残念ながら理解ができませんでした。なぜ理解ができないか。いままでの職場で「お客さま第一主義」といいながらも、自分たちの都合で、会社の都合で、ホテルの都合で動いている現実を知っています。
「ゼネラルマネジャーに、お客さまの希望をすべて聞きなさい。わがままを聞きなさいといわれたって、そんなことできるわけないじゃないか。できないことをどうやってやるんだ」と、みんな開き直っていました。
あっという間に半年が過ぎてしまいました。改めて招集されました。そのとき、「皆さん方は『ノーと言わないサービス』こそがお客さまに感動を与えるんですよ。他のホテルとの紙一重の差をつけるんですよ。このサービスを理解できない限りは、日本一のホテルなんかありえない」、そんな位置づけのなかで彼はそのとき初めて具体的な例を話してくれたのです。
ある日、宿泊部に一本の電話が入ったのです。「小泉というんだけど、明日、ツインの部屋、空いていないだろうか」。しかし、残念ながら満室でどうしようもない。いままでのホテルでしたら「小泉様、せっかくお電話をいただいて申しわけございませんが、あいにく私どものホテルがおかげさまで明日は満室でございまして、申しわけございません。また次の機会よろしくお願いいたします」、それで終わりです。
そこにサービスの心がありますか。おもてなしの心がありますか。ただ、事務的な対応です。明日のことです。お客さまは困っている。ひょっとしたら、(ほかに)電話していらっしゃるかもしれない。そんなところにお客さまの心情、お客さまの立場、目線に立って理解して対応していますか。ただ事務的に、ただ機能的に、俗な言葉でいえば「小泉さん、うちは空いておりません。どこか別なところ探してください」といっているのと一緒でしょう。それがいままでのホテルです。そこにホスピタリティがありますか。
彼はこうやって指導してくれました。「小泉様、数あるホテルのなかで私どもの宿泊部にお電話いただきましてありがとうございます。数ある印刷会社のなかで、私どもにご用命いただきましてありがとうございます」。まず心からの感謝の念をもって対応してあげてください。感謝の気持ちがあれば、おのずからお客さまの目線、お客さまの心情を理解して、明日のことであるから対応するはずでしょう。
「小泉様、小泉様のご希望の明日のツインの部屋があいにく、私どものホテルがおかげさまで満室でございまして申しわけございません。しかし、明日のことでございますので、きっとお困りでございましょう。 もしもよろしければ、20〜30分お時間をいただけませんでしょうか。よろしかったら、私どもの近隣のホテルの空き状況と料金を調べさせていただきまして、私どものほうでぜひお手伝いさせていただけませんでしょうか」
大方の方は、「ありがとうね。そこまで手間暇かけてやってくれるのか、そこまで気くばり、心くばりしてくれるのか」。
お客さまは、人は、期待を超えた心くばりのサービスがあったとき感動するのではないでしょうか。言われたことをやって感動がありますでしょうか。期待を超えたとき感動があります。その感動は、余韻を生みます。その余韻こそが人に話したいという気持ちを起こす。それが口コミではないでしょうか。
後ほど口コミを戦略化するお話にも少し触れさせていただきたいと思います。
そういうふうにして、できない場合もある、ルールもある、満室だってある、売り切れるときだってあるでしょう。しかし、私たちは常に、お客さまが喜んでいただける、幸せになっていただける、そのためには何がお手伝いできるだろうか、その発想のもとに、常にできない場合は代案を考える習慣を指導してあげてください。常に代案を考える習慣をつけてやってください。
また こんな話もしてくれました。
ある日、麻生さんが、夜中の12時にタクシーを飛ばして部下ともどもにバーのほうに一杯飲みにお見えいただいた。しかし、残念ながら、バーのほうはラストオーダーも過ぎ、そろそろ閉店の時間を迎えている。そんなときお見えいただいたら、「お客さま、せっかくお見えくださいまして申しわけございません。あいにく、私どものバーのほうはもうラストオーダーも過ぎ閉店でございます。申しわけございません。次の機会、よろしくお願いいたします」。
夜中の12時に、たくさん飲むところのあるなかにタクシーを飛ばして部下ともども楽しみに来ていらっしゃる。そんな状況のなかで、「うちは閉店です。帰ってください」といわれる。皆さん、どんな心境になられますか。
そこにサービス精神がありますか。お客さまに喜んでいただける、幸せになっていただけるために、その精神がありますか。 |